Mitt lilla kök

北の果て,極少の台所から

「強い」の定義は?

私は料理本が好きなので、新本古本問わずとにかくあれば手にとって見る。

しかし、やはり古本の方が宝箱を開けるような気分になってワクワクするし、古本屋通いはコロナで回数は減ったものの、隙を見ては行きたいところだ。

 

スウェーデンの料理本の歴史は古い。1800年代のものもちらほら見かける。私も1920年代のを何冊か持っている。そして婦人雑誌の歴史も古い。当時の服装やら文化が垣間見え、読むのは楽しい。これは私がよそ者だから楽しいと思えるのかもしれない。

このように楽しい昔の料理本の世界に反して、現代スウェーデンの女性運動は非常に激しく、女性は一切の料理などの仕事は完全放棄したい勢いだ。昔は無理にさせられていたから今はもう絶対にしたくないのよ、という決意がこちらの女性と接していてよくわかる。料理は日常でなくイベントとして捉えているんだと感じる。来客がある時、特別なパーティー料理をその時だけ作ってみるとか、誕生日会の時だけデコレーションケーキを作ってみるとか。一種のエンターテイメントだ。

女性が男性に使われていると感じる時代はスウェーデン女性だけのものではなかったはずだ。日本の女性も男性より一段下に置かれて、女に教育は要らないとか結婚したら仕事は辞めろと最近までおおっぴらに言われていたと思う。スウェーデンの女性の状況より過酷だろう。でも日本の女性は「歯を食いしばって」とか「砂を噛む様に」頑張って来ていたと思う。表に出さないけど、寡黙に。

夫は日本の女性はみんな強い、という。ギャーギャー大声でわめいたり怒鳴ったりしない代わりに、黙ってじっと色々な事を考えている、と思っているらしい。熟年離婚、というのは本当に賢いやり方だと感心していた。最近日本でも男女関わらず、割り勘が一般的になりつつあるような記事を目にすることが多くなった。

スウェーデン女性は自力している様だが、労働してる人が殆どだから収入はあっても、男性と食事に行って払う人はわずからしいし、レディファーストをしないと怒る人も多い。何だかこれを聞くといつも割り切れない。男女平等は何処にあるのと聞きたい。

そして男女の仕事の役割分担をしっかり付けたいと思っているところも不思議だ。私が庭の芝刈りをして、夫がそれを見ながら庭で座ってビールを飲むと言うと、まるで夫がハラスメントしてるかの様だ。私は芝刈りが好きだし、細かいところまで夫は気づかないから自分でした方が早いのだ。小さい釘を打つのも、電球の球をとり替えるのも男性の仕事。食料品の買い出しも食事の支度も男性の仕事。嘘みたいな話だが、本当にそんな人は多い。

 

昔はあんなに素晴らしい料理本や婦人雑誌があった国とは思えない。何でもかんでも放棄すれば、将来何も残らない。

多少の困難でもたまには愚痴でもこぼしながら、少しでも楽しみを見つけたりして過ごしている日本女性の方が社会的環境はまだ途上であっても強くて生き延びられる気がする。

 

追記

こちらで人と付き合うのは難しいなぁと思う。在スウェーデン歴数十年の日本人女性の方も友達作るのは不可能とおっしゃっていたので私だけじゃない。私だけでなくスウェーデン人女性同士でも友達は出来なさそうだ。例えば日本で「私、仏像好きです」と言ったら、すぐ同じ趣味の人など見つかって話したり出来るものだが、これらで同じ趣味の人に会ったことがない(もちろん仏像以外の趣味で)。女性運動だからと、皆で男をぶっとばそう!と団結している友達同士も見たことがない。

 

一番孤独なのはここの女性なのかもしれない。強がるのに壁が必要なのかもしれない。

男性の方が気さくだし、男性同士で仲良く趣味で集まったりは多い気がする。私も男性の方が話しやすい。


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こんなに素敵な女性文化があったのに勿体ない。私はせいぜい愉しませてもらう。

しかしこれはこちらの女性にとっては黒歴史なのか?

私のパラダイス・スウェーデンのスーパーマーケット事情(1)

スーパーマーケット(以下、スーパー)は旅行者にとって大変ありがたいものだ。


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小さな店を回って可愛いもの、面白いものを探すのも楽しみだがこれは時間がある時限定。その点スーパーはたとえ時間が無くても一軒で食料品からお土産まで、何でも揃う。時間に限りのある旅行者は本当に助けられる。

スーパーではお土産もいかにもみやげというベタなものではなく、ちょっとお洒落な気の利いた雑貨が簡単に発見出来る。

私の北欧スーパー利用歴は約20年。もちろん当時は旅行者として利用していた。最初は日本のスーパーとは異なる品揃えに舞い上がって買いすぎたり、変わったものを買って家でなかなか使わずしまっておいたものも多々ある。

そして約20年前にはスーパーの形態ものんびりして、個人経営的なローカルな小店舗も存在していた。

今は生活のためにスーパーを利用する。旅行者の頃も何となくぼんやりとそれぞれのスーパーには特徴があることに気付いてはいたが、実際住んで生活に密着するとまた視点も変わってくる。

簡単に北欧スーパー色々を、自分でも整理してまとめるつもりで紹介したい。

 

1.スーパーの分類

スウェーデンのスーパーには日本と同様に色々な種類がある。

①主に郊外にあるショッピングモール併設型の超大規模スーパー。日本でいえば、イオンモールの様な感じだが土地が広いので建物型駐車場ではなく屋外のだだっ広い超大型駐車場付き。

②大型だがスーパーだけが独立しているディスカウント店。

③住宅街にある「よろず屋」的スーパー。

それではそれぞれを簡単に説明すると、

①は現在一般的で利用する人は非常に多いのではないか。木曜、金曜の午後と週末は終日混み合う。家族連れで車で来られて無料駐車場があることが大きい。多世代で一日楽しめる。

場所によってはIKEAや規模の大きいホームセンターが併設されているところもあったり、休日や夏休みなど非常に賑わいを見せる。スーパーも超大型というだけあって、食料品のみならず台所用品、服飾品、インテリア用品、おもちゃ、電化製品、園芸用品などありとあらゆるものが買えるし、食料品は割と多国籍な食材が売っている。

薬局と酒屋、郵便局を扱うサービスなどが併設されてることがほとんどなので、このショッピングモールだけで用は足りる。

ノルウェー国境にはノルウェー人相手の大型ショッピングモールがあり、物価が高いノルウェーから比べれば格安で肉やソーセージ、砂糖、ソフトドリンクなどが買える。休日の超大型駐車場はノルウェーナンバーの車が98%だ。スウェーデンに居ながらノルウェーが楽しめるのでたまに夫と遊びに行くこともある。大きな肉の塊やら、シーズンによってはノルウェーの伝統菓子やパンが買えるので観光気分も味わえる。しかしこのコロナの影響でノルウェーとの国境が封鎖され人の行き来がなくなった。ショッピングモールも閑古鳥が鳴き、テナントも撤退しているところが多いようだ。去年の復活祭後の休暇中、ドライブがてら久しぶりに行ってみたら、巨大スーパーは客も殆どなく、商品も売れないので生鮮食料品のコーナーはロープがひかれて空虚だった。きっとまだコロナが猛威を振い始める以前にたくさんのノルウェーからの買い物客を見越して仕入れただろうからお菓子やチョコレートは山ほど売れ残っていて、綺麗な缶に詰められたデンマーク王室御用達のチョコレートが、スウェーデンでは一箱1200円以上するにも関わらず、私達は300円ほどで手に入れた。チーズやサラミも全部投げ売りで50円。通常ならデリカテッセンで高々と売っているのにだ。お客さんがいなくて大変なのだろうと本当に悲しかった。

と話しは脱線したが、大型ショッピングモールにあるスーパーは家族連れに人気があるのだ。次に②。

②大型でスーパーだけが郊外にある店もある。これはディスカウント店と位置付けられている。ショッピングモールの大型との違いは店内の陳列の仕方やインテリア 、建物のつくりにあると思う。ショッピングモール大型スーパーは、非常に綺麗に商品が陳列されており、商品数も非常に多く多種類から選べるようになっている。例えばオリーブオイルひとつにしても様々な種類が販売されている。デリカテッセンと呼ばれる対面式でチーズ、ハム、肉、魚を売るコーナーがある。日本で言えばデパ地下でデリと呼ばれているものに当たると思う。おしゃれな出来合いサラダや一品料理なども買える。

ディスカウント店も品数は負けていないがインテリアや電化製品などは売っていない。そして陳列の仕方が非常に簡素だ。日本でいうとあそこまで広くはないが、コストコやIKEAのような感じ。そこまで倉庫感はないものの①に比べたらシンプルだ。しかし食料品は非常に充実しているし、野菜は新鮮で種類も多い。そして安い。この安さの秘密は合理性にあると思う。

③ 住宅街にある「よろず屋」的スーパーは、家族経営の割りあいが高いと思う。価格はもちろん大型店に比べたら割高だ。しかし地域に密着してるぶん客との距離も近く、行けばレジで少し話したりもする。近郊農家のじゃが芋や野菜が売っていたり、養鶏場から直で卵が売っていたり、新鮮な季節の花が買えたりもする。

 

生活しながらこれらを使い分けている。画像を載せたいが、あまりに身近で良いのが見つからない。また撮ったら上げる。

 

スーパーの企業によってもまた違いがあるのだが、それはまた次回に。

 

本来ならここはノルウェーナンバーで一杯になるショッピングセンターの駐車場の1部。コロナ騒動で閑古鳥。
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虚飾は無駄だしつまらない

お正月にかこつけて、普段よりもおおっぴらに怠ける時間が出来るので、立て続けに映画鑑賞している。

ハイクで繋がっている皆さんの文化的生活を見習うべく、そして受けた刺激の多くを自分でも実現しようという気持ちからだ。

昨年の夏、雷が落ちてテレビやアンテナやら諸々がダメになった。配信に入っていたが、どうせ家にいる時間が長いから もう少し拡大した配信に加入した。そのおかげで映画館に行かずともたくさんの映画を見ることが出来る。Twitterやブログで話題になっているものも見たし、なにしろ語学の勉強にもなるので積極的に見るようにしている。

そして一番嬉しいことは、大きな映画館のロードショー的映画よりも、昔よく探して行っていた小さい名画座で上映される映画の本数が抜群に多いことだ。

オスカーもすごいとは思うが、カンヌ映画祭の方に私自身は魅力を感じる。

お正月三ヶ日は北欧映画祭りを自分で開催して見ていた。ノルウェー、アイスランド、デンマークと近隣諸国の映画は比較的よく入って来る。

ノルウェー映画では、現代社会においてどこの国でも悩んでいる人の多いセックスレスの問題をとりあげていた。

アイスランド映画では、厳しい自然の中で羊農家の人達が暮らしている様子や、羊に病気が発生し村中の羊を殺生処分しなければならなくなった苦悩。

デンマーク映画ではグリーンランド領にデンマークが侵攻し、どんどんデンマーク化をはかろうとする話。

スウェーデンの映画も1本はノルウェー映画同様の夫婦の苦悩。もう1本はスウェーデンらしからぬ、可愛らしいのんびりとしたラブコメディ。レストランが舞台だったので見るのに力が入った。調理場の緊張感溢れるところが良い。

どの映画も結局食事や台所のシーンが1番興味深かった。

 

どの映画も良いなと思ったのは、等身大の人間模様や感情を取り上げているところだ。何処にでも同じような事はあるんじゃないかと思えるし、いろいろな人間の感情が飾らず描かれていることにどの映画も好感が持てた。

民族を侵攻する話は包み隠さず過去をさらけ出していた。スウェーデンもかつてサーメ族にスウェーデン語を強要したり、属国のように扱っていた歴史もある。

日本でも歴史教育が度々議論されるが、包み隠さずにありのままを知ることが大切だと思う。

飾っても誤魔化しても、いつかメッキは剥げ落ちる。ありのままの自然な姿が1番だと強く思った次第である。

 

 

2021年にやってみたいこと

2021年が明けた。
今年は年明けを強く受け止めた。
普段なら、ああ今年も頑張ろう、とか、こういうことがしてみたい、行ってみたい、など呑気なことを考えるだけだった。

今年は強く、今年は絶対に帰省したい、そのためにも健康でいなければならない、と決意している。
帰省は私が一人でどうこうできる話ではない。
この騒動が何とか収束してくれなければどうにもならない。収束するための個人で出来る限りの努力は惜しまない。

そして他に今年したいと思っていることは、やっぱり料理だ。
自分で作って食べるのはもちろんだが、北欧料理をもっと広める手段はないものかと考えている。
夫の国だから上手くなって美味しいものを食べてほしい、という気持ちから始まったのだが、私自身も無理に合わせているのではなく、心からそれらのレシピが好きなのだ。そしてその歴史や成り立ちを見ると、上手く出来ているものだなぁと感心することも多い。
IKEAが日本に出来て、北欧の食品も少しは手に入る様だが、ミートボール、ソーセージ、鮭だけが北欧料理ではない。色々な外国の料理人が北欧料理にアレンジを加えて紹介する番組もある様だが、アレンジはアレンジでオリジナルではない。美味しいだろうとは思うし、食べやすく工夫されていて素晴らしいとは思う。
まだ頭の中でうまくまとまっていないのだが、とにかく北欧料理を広めたいというのが、今年のやってみたいことの一つだ。

それと同時の陶器や調理器具についても雑多にごちゃごちゃしてる物や知識も自分なりに整理したいと思っている。

いつもだらだら思うだけで、ああでもないこうでもないと無駄に実りなく時間が過ぎるが、今年は恥を忍んで大風呂敷を広げてみた。

今年の暮れに読み返した時、少しでも形にして笑えるか、何にもなくて悲しんでいるのか。
あと365日を過ごしていこう。

大風呂敷を広げたついでにもう一つ言うと、あとひとつくらい語学の幅を増やしたい。

自分で立てた目標に溺れないように、うまくコントロールしながら焦らず過ごしたい。自然体は簡単そうで難しい。。。

どうぞ全てによい一年になりますように。
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将来どんな気持ちで2020年を思うのだろう

「密」という漢字が今年は選ばれ、
2020年も暮れようとしている。

「死ぬことは怖いことではない」
と元気な頃から話していた父ももういない。
自分も歳をとって来ているんだと、
気付かされた年だった。

コロナのゴタゴタで別れにも行けず、だからまだどこかで元気でいてくれている様な気分になる。
淋しい気持ちにさせない、父の優しさだったのかもしれない。

3月以降、人に殆ど会わない孤立した年だった。
「美味しいお菓子が焼けたから」と誰かを呼んだり、誰かを訪ねたり出来ないことがこんなに詰まらないものかと痛感した。
こんな時だからこそ、自分で修行だと思って色々試したり練習してももう一つ気分が上がらない。

空白の一年だった気がする。
自分の一生を表すノートがあれば、2020年は空白だ。

日本に緊急事態宣言が発令された時、自分も何かやらなきゃいけないのではと、非常に気負って疲れてしまった。時間が出来たから何か勉強すべきか、断捨離したり掃除したりするべきなのか。

何事もないありふれた時間の中の休みであれば、心も健康だから何かを始めたりやり遂げられたり出来るであろうが、得体の知れない病気に不安になったり 気を配らないとと神経を擦り減らしながら、何かに一生懸命になるのは難しい。
人間、どうせ自分が出来ることしかできない。無理に明るくして疲れるくらいなら、暗くても無理せずひっそりしておけば良い。

今年学んだことは、髪の毛は自分で切ろうと思えば自分で出来るということ。これは大きな収穫だった。人間追い込まれれば結構いろいろ出来る。まさかこんな日が来るとは思ってなかったので、どうなることか心配だったが何とかなった。
反対に夫は髪を伸ばしている。次回日本に帰ったら床屋に行くそうだ。その時を待っている。

「密」は当たり前のことで、密を避けることはつまらないんだと気付いた年だった。

まだ先は見えそうにないけど、来年は普通の日が戻ってくることを心から祈っている。

ひっそりと来て去って欲しい年末年始

此処に来てどんどんコロナの感染者数が増加している。一時は感染者数も下降気味となり、このまま静かに終わってくれたらいいのに、という願いも虚しく増加が激しくなっているので、テレビを見ていても関係者の顔が険しくなりつつある。

「手を洗え。密を避けろ。距離をとれ。」

一生懸命叫んでいるし、街の中でもポスターなどで宣伝しているけど、誰が聞いているのだろう。この週末にはクリスマスイルミネーションのツリーの先端の星が点灯されたか何かで、ストックホルムや都会辺りのバーやクラブは酷い人混みだったらしい。

クリスマスマーケットも今年は皆中止の様な事だったが、何処かでは開催されてそれも恐ろしい人混みだったとニュースを見た夫から聞いた。

「2メートルあけろと指導はあるけど、あれはたった1センチだった」らしい。

老人ホームでもまた感染者は増えて来ているが、禁止していた面会を再開したからではない、職員からの感染だ、とのこと。

コロナは高齢者がかかる、若者はかからない、こういうことをもう信じている人は少ないだろう。子どもも気をつけなければならないのに、子どもたちの生活がコロナ以前と今で変わっている様には見えない。

学校帰りの子どもやティーンエイジャーを見ても団子のようにくっついて喋りながら歩いている。放課後学級の子ども達も見事に団子状態。教員は側にいるのに注意している様子もない。距離をとれどころの騒ぎではない。この国の女性の多くは介護施設で働いている。子どものいる人が殆どだ。その人達が家では子ども達と接し、職場で高齢者に接していると思うと怖い気がする。医療関係は別として、マスク着用者はほぼ5%くらい。その5%も海外からの旅行者ではないか。最近スーパーでは売り出しつつあるが、ほとんどしている人はいない。

日本ではワイドショーって無駄だなと思っていた。しかしここにいるとニュース以外で状況を知ることは難しい。積極的に新聞を読み、ラジオを聴き、テレビのニュースを見る人の割合は減っている。皆、状況を把握しているのか疑問に思うことがある。

コロナに感染し、死を覚悟したくらい酷かったとか今も後遺症に悩まされている、精神的にも参って立ち直れない、経済的に苦しくてどうしようもない、などそういう人達は現実に存在しているし、ニュースでも流れる。

ワイドショーは煽っているとか大袈裟だとか批判もあるが、今の私の状況ではここでもそういう番組をしてくれたらいいのに思うくらいだ。少しどれだけ怖いのか 大袈裟でもいいから注意を喚起してほしい。

夫も知人と話すが、皆余り深刻には考えておらず、自分はかからないと言う妙な自信が怖いという。ロックダウンを法制化するかしないか政府で議論されている様だが、議論している間も感染は広がり、人は亡くなっていることを受け止めてほしい。

感染するかしないか、運試しの様な不安定な状態が何時まで続くのか。考えると恐ろしくて、眠れない。

せめて今年は年末・年始のイベント感は忘れて、ひっそりコロナ収束のために静かに過ごすような風潮になって欲しい。これが終わればまたいくらでも楽しいことは出来るのだから。

悲観的過ぎると批判されるかもしれないが、あまりに変わらぬ状況に苛立っている。
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このポスターでどれだけの人が距離をとるのか?そして屋内のホームパーティーでどうやって?

とうとう冬がやって来た

すっかり太陽がなくなった。ひたすら灰色の空が低くたれさがって、ただ底冷えだけがしんしんと感じられる。いつの間にか冬になっている。

太陽が照らないのは辛い。普段ならこの時期タイやスペインなど日光を求めて人は旅に出る。暗い中ではやっていけないからだ。季節性鬱も多くなる。私も気をつけなければいけないので、少し体を動かしたり、ビタミンをたくさん摂ることを心がけている。

今年はこれに加えてコロナが大きく影響している。暗い時期の楽しみは、人と会っておしゃべりするのが一番だ。蝋燭を灯して美味しいものを食べ、美味しいお酒を飲んでのんびりする。しかし今年はこれが出来ない。

いろんな人がいる。以前と変わらず距離も取らずに人に会ったり、会食したり。。。私が夫以外の人と一緒にお茶を飲んだのは、今年1月の帰省後、たった1回だ。それも遠く距離をとってお茶を飲んだ。人と接するのは一番危険なんて 非常に悲しい病気だ。伝染病だから仕方ない。

何か楽しみを見つけないとやってられない。ほぼ10ヶ月、隔離の様な私の生活の楽しみは料理だった。料理好きは以前からだが、特に今は時間だけはあるから、栄養バランスも出来る限り注意しながら、いろいろな新しい料理も試したり、オーソドックスなものを復習してどうすればもっと美味しくできるか考えたり。

積読になっていた分の料理本もじっくり読んで、新しい発見もある。

博物館、美術館もお休みで外出する場所も、ぐっと制限されてきた。大好きなセカンドハンドも教会や赤十字のボランティアの方で支えられており、その様な方は皆年金受給の高齢者だ。感染を防ぐためおやすみされると、店は休業となる。

人混みには行きたくない、となれば結局空いた時間を狙ってのスーパー通いが唯一の娯楽だ。これは食事に直結し料理の材料選びにも力が入る。

特に夏はトマトときゅうり、ズッキーニやナスをよく食べた。夏の間は旬だから値段もぐっと下がる。イタリア料理を筆頭に地中海料理のお世話になった。

秋は根菜とキャベツ類。これは寒いスカンディナビア地方のお得意分野。豚肉と組み合わせてシチューやオーブン料理の出番。


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さて来月はクリスマス。今月の末に第一アドベントがあり、そこからクリスマスが始まる。クリスマス料理は前菜、主菜、デザートの多種類をビュッフェ形式で食べる、いわゆるスモルゴス・ボードと呼ばれるものだ。

最初越してきた当時は、クリスマス・イヴ、クリスマス当日でそれらの料理を食べ尽くすのは大変なことだと思っていた。

しかし考え方を変えて、12月はクリスマス月間とすれば、毎日それらの何かのメニューを晩ご飯に食べていいのじゃないかと思い、24日にこだわらず、第一アドベント以降は普通に食べている。その方が楽しい。

どのお皿を使おうか、テーブルセッティングはどうしようか、考えることは多い。

天気が悪い、外が暗い、文句を言っても仕方ないから、それらを忘れるくらい色々楽しみを考えよう。12月20日を過ぎたら冬至が来て、日はどんどん伸びて行く。

人に「私は復活祭を待っている」というと笑われるが、復活祭の頃は花が咲き始め、日はみるみる伸びて、日照時間が長くなる。空は青く高くなる。

その日が来るのを今年も待つ。それに加え、コロナの収束が来るのもひたすら待つ。

たくさん料理のレパートリーを増やしたいという決意を持って。



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