Mitt lilla kök

北の果て,極少の台所から

女やら男やら。。。思うことなど

「北欧は男女平等が非常に進んでいます」

「国会議員、党首など女性の占める割合が非常に高いです」

「女性に優しい社会」

メディアでよく見る言葉だ。

北欧(ここではスウェーデンのことを指す)の女性の労働環境は素晴らしい。子供が出来れば、ママ休暇。100%分の給料支給ではないが有給でママ休暇が1年間とれる。これは事実婚や法律婚に関わらない。サンボと呼ばれる同棲婚(事実婚)は世間的に認知されているし、育児も地域には託児所、小学校には放課後の児童預かりなど公的システムが用意されている。児童手当ても充実、子供の医療費、歯科の費用 、教育費も全て無料。

例えば、子供が病気になった時、早退する子供を学校に引き取りに行ったり、子供の病気による自宅待機による休暇も父親、母親関係なしに遠慮なくとることが出来る。

親の介護も基本的にない。親は親。子は子。

高齢者にとって複雑なインターネットバンクの手続き業務や週に一回の大きな日用品の買い物、ちょっとした掃除の手伝いは子供たちや家族がするものの、後は基本公的サービス任せだ。

 

こんな風な北欧の女性のための環境は羨ましく見えた。

育児や介護に囚われることなく「活き活きと働ける」。そして結婚についても「自由」な形を選択できる。

若者が家庭の経済的な事情で進学を諦める必要もない。教育は教科書代を除いて無料だ。公共交通機関も大きく割り引きされる。親の負担はほとんどない。

男女が共に住むにしても、両者の同意のみで至って簡単だ。親には事後報告の方が多いのではなかろうか。

それに反して日本では夫婦同姓あるいは別姓をとるのか、まず考えなければならない。何か人生の節目において悩んだり決断したりする時、自分達の気持ち以上に制度の中でまずがんじがらめにされている気がするのだ。

ここでは女性だからと諦めるものが何もないパラダイスの様だと私には思えた。

男女平等を進めた結果のモデルケースがこうならば、本当に素晴らしいではないか。

 

しかしこの国で暮しているうちに、おやおや?と思うことが出てきたのだ。

パラダイスの住人である女性達は本当に幸せなのかなと思うようになった。

70年代の「ブラジャーを脱ぎ捨てよう!!」のスローガンのもと起こった女性運動。そこからどんどん女性の地位向上が始まった。

日本でもラーメンのコマーシャルで「あなた作る人、僕食べる人」が当時物議をかもし出したようだが、ここでも1930 年代から続く『主婦のための台所帳(原題: Husmoderns köksalmanack)』のタイトルが1979 年版以降、「主婦の」の部分を削除し刊行するようになった。女性、それも主婦のみに特定する事は女性差別に当たるからだろう。

そしていろいろなことが変わってその結果、世の中が女性中心に進んで行く。悪い原因は全て男性にある、という風潮が加速する。社会は女性の味方になった。

移住した当時、環境の変化から来るストレスと、冬の日照時間の余りの少なさにより私は鬱になった。カウンセリングを受けたら良いと医者から勧められた。

カウンセラーが私にした最初の質問は「パートナーに満足していますか」だった。びっくりした。具合が悪いのは私なのに。夫は穏やかで楽しい優しい人である。

その後いろいろ質問が続き、そしてそれは彼女がどうしても夫を悪者にしたいんだな、と感じることが多いものだった。私の鬱の原因は夫の暴力かとりあえず何か夫に落ち度があるようにしたいようだ。

結局 「あなたの人生。あなただけのことを考えて。離婚するのも一つ。健康になれるからよく考えてね。」と言われ帰ってきた。もう二度とカウンセリングに行こうとは思わなかった。私にしたら的外れも極まりない回答だ。

どうして太陽の少なさで気持ちが落ちていることと離婚が結び着くのかわからない。

帰って夫に話すと笑われた。ここではそういうものだということだ。

女性に何かあった時、常に悪くなるのは男性なんだと、よくわかった。女性は社会全体から「守られている」のだ。女性のための相談所、女性のためのシェルター(家庭内暴力からの)等々。

ここでは男性の影がともすれば薄くなってしまいがちだが、男性は寡黙に良く働く。家族のためにパパ達は頑張っている。それは日本の男性とも変わりない。北欧の男性と日本の男性は似ていると思う。外国人は表現力が豊かで、ジェスチャーも大きく、朗らか。多分これはラテン系の外国人のイメージだ。ここの男性達はシャイだし、物静かな人が多い。しかしかわいそうだなと思うことは、日本のようにほっと出来る遊びがないことだ。会社帰りに同僚と居酒屋に寄って一杯引っ掛けながら上司や嫁さんの愚痴を言ったり、カラオケで発散なんてできないし、場所も時間もない。

仕事が終われば、直で学校に子供を引き取りに行く。そして食事をつくって食べさせる。いろいろな働き方があるため、夫婦が夕食に揃う時も揃わない時もある。ママ抜きでパパが食事などの世話をする日もある。

休みになったら家の改修やら庭の手入れ、車の補修など休むひまもない。子供の習い事の送り迎えなど本当に忙しい。

ここでおやおや?と思った一つのことは、男女平等なら庭仕事も家の改修、車の補修でも女性も一緒にやるよね、と思いきやそれは「男の」仕事なので 女性はほぼノータッチ。

実際にキャンプに行った時面白かったのは、 周りを見ていると、キャンプ場に着いて旦那さんたちの最初の仕事は、奥さんのために椅子を設置すること。奥さんたちはそれに座って雑誌を読みながら待つ。もうひとつうわ手の奥さんたちはワイングラス片手に待っている。旦那さんたちはキャンピングカーの設営から、バーベキューの支度まで全部一人でするのだ。これも「男の」仕事らしい。

男女平等とは男性に全てを押し付けることなのか?なぜ一緒にやらないの?とまず思った。一緒に旅行に来て楽しむんだったら 、一緒に準備した方が時間も負担も軽減するのに。それでもそれは「男の」仕事らしい。

私達は日々の生活の中でやるべきことに追われていくのだが、私はこれが人生ではなかろうかと思うのだ。生活に追われていると言うと苦しい感じがするけど、食事が美味しく食べられれば満足するし、子供が育てば励みになるだろうし、家や庭が綺麗になっていくのは楽しい。年月が経てばパートナー同士も恋人の時のような時間はなくなっていくし、それぞれがおかあちゃん、おとうちゃんになって行くのは自然な流れではないのか。そしてドキドキは消えても理解してくれる人がいるという安心感と家族としての歴史は残っていく。

ところがこれを面白くないとこちらの女性の多くは考える。本当に真面目に考える。いつまでも男性から耳元で愛を囁いてもらって、薔薇の花束のあるロマンチックな生活を望んでいる。(嘘の様だが実際にいろいろな人に聞いてみたらそうだった)。そして赤が女の子、青は男の子と色分けするのはいかがなものか、という議論が日本であったように記憶しているが、女性運動が活発なこの国の女性はピンクが本当に大好きだ。

話がそれたが、女性解放や地位の向上のもともと目指したところは、どこだったのか。彼女たちは何をしたかったのだろうと思う。

男性にいろいろ要求し、働かせることが女性の地位向上なのかと思ったし、「男女平等」だったら要求だけじゃなくて、自分もそれだけ返してるのかと突っ込みたくなった。

どうしてここまで要求できるのだろうか。

私が思うに、頑張らなくても何でも手に入るからだ。障害物が非常に少ないからとも言えるだろう。無理することがないから、もっともっとと要求が果てしない。我慢しなくていいからちょっとしたことでも不満を感じてしまう。

日本の女性は長い長い間、男尊女卑の思想の下で生活を強いられてきた。時代物のドラマでも女性が別部屋で食事をしていたり、女性の教育の機会は男性と比べたら格段に低かった。家父長制度の下、女性は個を出すなんてもってのほか、夫のため、後継ぎのため、家のために生きていた。

戦後、家父長制度がなくなったとはいえ、結婚といえば家と家との結びつきという考えは最近まで残っていたのではないか。

ついこの間まで、女子学生がパワハラ、セクハラ(そんなハイカラな言葉さえ今のように一般的ではなかったが)を教員から受けたり、女子社員が結婚したら働きにくくなり、子供を産めば退職させられるような状況があって女性たちは何事も我慢させられていたのが実情だ。

実際に私自身当時女子学生が極端に少ない学部の学生だった時、

「女は男の3倍勉強しなければ、男と同等ではない」とか「結婚するなら研究を辞めて主人に養って貰え」などと教授達は平気で言っていた。

ある教授にゼミ申請をすると、

「女の学生はとらないので」と丁寧にお断りされた。

ゼミに属しても、飲み会になれば教授の隣でお酌を要求される。ただでさえ男子学生より発言の機会も減らされおり、此処で逆らうと研究が継続できないのではという恐怖から断れなかったのが実情。

今思えば酷いことを言われ続けていたんだなと呆れるし、今なら間違いなくパワハラ・セクハラで訴えることが出来るに違いない。

私のような未熟者でもこうだったのだから、もっともっと優秀な女性の諸先輩方は女だからということで、どれだけ辛い思いをさせられたかと思う。

かつての日本社会では、女性が男性の世界で生きていくためには女を捨てる覚悟で歯を食いしばって行くしかなかったと思う。女性が結婚も出産も諦めなければならない状態が続いた結果が、今の出生率低下の一因となっているのは周知の通りだ。

その中で日本の女性たちは自分を取り巻く環境と日々戦ってきたし、戦っていると思う。職場、家庭、社会に対して。工夫したり、折り合いをつけながら生きている。

しかしここの国の女性たちは戦う要因が日本女性にくらべて俄然少ないのだ。制度でも社会でも家庭の中でも女性が一番なら、戦う必要はまるでない。

その挙句、ロマンチックな言葉を言ってくれないパートナーに不満が募る。家に帰って疲れきってソファに寝そべってテレビを見ているパートナーが許せない。

結果、新しいパートナー探しを始める。いわゆる不倫だ。子供がいようがお構いなしだ。決まり文句は「私の人生だから」。クリスマスと夏休みのあとの離婚率(パートナー解消率)はグッと上がる。実際に現実をあちこちで見せつけられて本当にびっくりした。子どものために辛抱するとか頭の中にはないらしい。

関係を解消しても、隔週で面倒を見るから子供と関係が切れることはない。女性にとっての制度は整っているから、新しいパートナーとのベビーもすぐやって来る。

「これが女性の地位向上と男女平等の結果」なのかと最近特に考える。

日本の奥さん達は、旦那さん達がソファで寝っ転がって鼾をかいていても、

「おとうちゃんは全くしょうがないわー。ゴロゴロしてるだけや。」と文句言いながらも、布団を掛けたり世話を焼く。

朝起きてから夜寝るまでゆっくり座る暇もない、と高齢の私の母も電話をすれば愚痴を言う。忙しいのだ。家庭、家族を守ることに忙しい。旦那さんがソファで大鼾でもよそ見してる暇などない。

女性解放や男女平等が誰かのわがままを叶えるために利用されているのは正しくないと思う。以前女性の地位が低くて大変だったから、それを男性に仕返してやりたいというのは、ちょっと子供っぽく筋が違うのではと感じる。女性も男性もストレスなく、助け合って生きていける社会が一番なのではと思う。

どちらかに何か大きく負担がかかるのは不平等だけど、負担をお互いに分け合って過ごしていくのが私にとっての男女平等の考え方だ。

 

国際女性デーには 毎年ラジオでも特集番組があったり語られる事は多いけれど、昨日の国際男性デーは私自身ツイッターでその存在を初めて知った。そして一日中ラジオでも何も語られることはなかった。

 

人間として助け合って、争わず、お互いを尊重し合う社会が本当の男女平等における社会のゴールであってほしいと思う。


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1968 年版(上段)には、大きく「主婦の」が記されているが、1978 年版(下段左)は、少しフォントが小さくなり、1979 年版には「主婦の」の表記は消滅している。

 

注) Husmoderns =  主婦の