おばさんは難しい
女性だけでなく、もちろん男性もそうであろうが、人生の中で自分の年齢を直視させられるショックな局面はいくつかあるだろう。
初めて白髪を発見した時、活字がぼやけて瞬時に読めなくなった時、急に今までの洋服の形や色がしっくり来なくなった時、口紅の色に違和感を感じた時など。
子供のいない女性が小さい子供から「おばちゃん」と呼ばれた時、ショックではなかろうか。未婚の女性が「奥さん」と言われた時も同様かも知れないが。
「おねえちゃん」という呼称も存在する。これは、未婚もしくは既婚でも子供がまだいない女性に使われていた。子供が生まれて初めて「おばちゃん」になるのだ。
私が19歳の時、歳の離れた従兄弟が結婚して子供が生まれた。私は小さい子供から「おねえちゃん」と呼ばれるのを楽しみにしていた。
ところが意地悪なおばが
「今はいいけど歳とった人がおねえさんと呼ばれるのはみっともない。今からおばさんでいい。」
といって、子供に「おばちゃん」と呼ばせようとした。これは19歳女子には非常に酷だ。
親戚の子供はその後増えたけど、皆心得たもので「おねえちゃん」と呼んでくれた。これは親戚だけでなく、世間一般的な暗黙の了解だった気がする。私も子供の頃は使い分けていた。
かつての女性の人生は非常に単純だったと思う。遅くても20代で結婚し、その後子供が生まれてお母さんになるのが当たり前だった。
1) 未婚、
2)既婚で子供なし、
3)既婚で子供あり、
この順番で歳を重ねていった。
「おねえちゃん」が結婚してしばらくしたら子供が生まれて「おばちゃん」になる。自然な流れだったのだろう。
ところがその後、女性の人生は大きく変わり、多様化している。
1)若くて未婚、
2)若くて既婚、
3)若くて既婚子供あり、
4)若くて未婚子供あり、
5)歳を重ねて未婚
6)歳を重ねて既婚子供なし
7)歳を重ねて既婚子供あり
親戚の子供たちは、ちゃんと考慮してくれる。どんなに歳をとっても、子供がいなければ「おねえちゃん」だ。
しかし、他人の子供の目は正直だ。子供は本当に正直だ。子どもがいるのか、結婚してるのか否か全くお構いなしだ。
ある日お隣りに、小さい子供のいる家族が越して来た。私は、先の分類では5) の状態。歳を重ねた独身だった。しかし気分はおねえちゃん。
その子供にある日言われたのだ。
「おばちゃん」
誰のことかよくわからない。?????
「おばちゃん」
それは紛れもなく私のことだった。
無理もない。その子供のお母さんは、私よりも若く、お母さんのお姉さんも時々子連れで遊びに来るが、その人は若いけど「おばちゃん」なのだから。
ママより、そしてママのお姉さんより年上の私が「おばちゃん」なのは子供にとって当然だ。子供は全然間違っていない。
上手く出来たもので、母親になってしまえば
「おばちゃん」
と呼ばれたって平気なのだ。きっと。
子供達に家で「お母さん」と呼ばれ ドンっと構えられるのだ。
私は母です!という強い気持ちの後ろ盾がある。
当時私は未婚だったので、お隣の奥さんが心遣って下さったのか、その後は「おねえさん」と子供からの呼称は変わった。それはそれで恥ずかしかった。
この歳にもなって、結婚もしないで子供も産まないで、まともな人生を送れてないんじゃないかと落ち込んだ。
その後しばらくして海外生活が始まると、呼称について悩むことはまるでなくなった。
年齢関係なく ファーストネームが一般的だからだ。小さい子供からおじいさん、おばあさんまで皆名前で用足りる。日本で私は微妙な年齢だったが、ここはパラダイスだと思えた。
多分日本で呼称にこだわり過ぎていたのだと思う。年齢や立場が関係する呼称が不要の土地に移って来て、年齢を重ねた人の生き方に目を向けられる様になったのだ。
「おばちゃん」と呼ばれる年代の人達の生活の知恵など、役に立って勉強になるものが多い。これは「おねえちゃん」にはないものだ。若さは失っても、知恵や経験が積み上がっていくんだ。
そう思えば、歳を重ねることも悪くないし 、若くないから出来ることもある、と今更ながら気づいた。
「おばちゃん」と呼ばれることに抵抗がなくなった。なんなら今の目標は、何でもこなせる「スーパーおばさん」になることだ。
花や野菜を育てたり、
ジャムを作ったり。
スーパーおばさんの道のりは今後も続く。
でもここまで吹っ切れるには、紆余曲折やいろいろ葛藤があって平坦ではない道のりだった。
様々な事を認めながら、それと寄り添って生きていくのはむつかしい!それでもまだまだ修行は続く。